先人達の生死感と三線

先人達の生死感と三線

ある冊封使の記録に
「琉球人は長寿と聞いていたが、それは間違いである。老人をみつけて話を聞くと、年は五十にも満たないが、外観はまるで高齢者なのである」と記録されていて驚いた。

人の一生の長さは社会が作り出すものなのか
または生死感から生まれるもので
時代を塗りかえながらゆっくりと変わるものなのか
感慨深いものである

美少年達を集めた琉球の演劇集団楽童子たちの生涯
彼らは歌 演奏 舞踊 書 と幅広くこなし
凄腕エリートとして訓練されていたという
やはりそのあたりは京劇の世界と近いものがある
しかし現代の中高校生ほどの年齢の青年が
芸を身につけるというのは滅多に難しいことで
やはり士族の子から才能を買われ選ばれたようで
親もそのつもりで幼い頃から芸を身につけさせるよう
訓練に出していたのだろうと想像する
そのため糸満売りや遊郭売りのような
いわゆる農民出身者はいなかった
そもそも、楽童子に関しての記録やその生い立ちの情報が
実に少ないのが気になるところなのだ
大戦で焼失しているものも多くあるであろう
それにしてもミステリーである

江戸上りの巻物や掛絵にはその名前と容姿が記録されており
⚪⚪︎里之子と名を打って書かれているものがある
しかし彼らは短い生涯を送ったものがいたようで
江戸上りの途中に旅先で病死したり
帰りの船の中や帰国後に急死するものもいたようである
私は楽童子の任務を終えた者の中には(または現役中に)
三線打 や 芸の伝承者 として生きたものもいたのではないかと考える
御茶屋御殿(現在の首里カトリック幼稚園)などでは中国の高級お香を飛ばして舞をしていたことが琉球古典音楽琉歌にも書かれている
※ 江佐節参照 沈や伽羅とぼすぢんやちゃらとぅぶす 御座敷に出でてうざしちにいんじてぃ
踊るわが袖のをぅどぅるわがすでぃぬ 匂ひのしほらさ

または、このように作ろうと指示を出して誂えたり
工夫を凝らすものもいたであろう
確実に現代人とは比べものにならぬほどの
特別な拘りを持っていたはずである
刀を身にする武士のように
三線やその他楽器、舞踊衣装や小道具に至るまで
生涯の宝として管理していたはずである
その彼らが、そして当時の人々が
どのような生死感を抱いていたのであろうか
そう想像することは私たちの探求の助けとなる
日々をどう捉えて生きていくかのヒントになることもある
人生50年の時代から、人生80年と変わった
しかし、当時はまさにいつあの世に行くのかは
いつも死と隣り合わせであったことが文献からも知ることができる
突然の病 原因不明の死 
いつも別れは付きものであった
故に生死感を問うた 自己を鍛錬した

少年少女達は南国の中で、川に行ってエビや魚を獲ったり
果物を見つけて分けて食べたりした
お米は裕福な家のものでも一日に一回あるかないか
疎開して田舎で銀米が三杯出てきて目を丸くしていただいた。とある。
琉球人は豚に人間の汚物を食べさせている
として非難されたとあるが
それほど国が貧しかったが故に国民はどうしようもなかった
という手記を見たことがある
そのような貧しさの中で
南国の緑と琉球石灰岩を通して流れる水
珊瑚礁の青い海に 美の全てを吸収していったのだろう
おもろの世界 御嶽の世界 
神々のいる深さに触れようと試みた
それは身近にあって感じるものであったのだろう
この生死感から生まれた一本の楽器や芸術作に
どれほどの愛情をかけて作ったのだろう
それこそ魂で材に揺さぶりをかけながら 
生みだされたに違いない

先人達の生死感と三線
※画像 那覇市立博物館デジタルミュージアムより


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